

伊藤恒三郎(創業者)
昭和10年代、東京にある田中政八商店に勤務。日本電気(現NEC)に納入業者として出入りする。そこで日本電気に勤務する栃木義夫氏に出会う。のちの株式会社栃木屋の創業者。 株式会社栃木屋

伊藤恒三郎(創業者)
昭和10年代、東京にある田中政八商店に勤務
日本電気(現NEC)に納入業者として出入りする。
そこで日本電気に勤務する栃木義夫氏に出会う。
のちの株式会社栃木屋の創業者。 株式会社栃木屋

【伊藤金属総業のすべての始まり】
戦時中、妻・静江の父(小柳出芳雄)の実家に疎開 。
1945年(昭和20年)伊藤恒三郎、静岡県田方郡北狩野村年川にて、金属部品製造を始める。
※現在の静岡県伊豆市年川

【伊藤金属総業のすべての始まり】
戦時中、妻・静江の父(小柳出芳雄)の実家に疎開 。
1945年(昭和20年)
伊藤恒三郎、静岡県田方郡北狩野村年川にて、
金属部品製造を始める。
※現在の静岡県伊豆市年川



戦時中、妻・静江の父(小柳出芳雄)の実家に疎開 。
1945年(昭和20年)伊藤恒三郎、静岡県田方郡北狩野村年川にて、金属部品製造を始める。
※現在の静岡県伊豆市年川



1959年(昭和34年)8月
静岡県田方郡北狩野村柏久保に移転。
※現在の静岡県伊豆市柏久保
1969年(昭和44年)1月
有限会社伊藤金属総業設立

東京での修業を終えて、伊藤製作所で働く達夫(現会長)

東京での修業を終えて、伊藤製作所で働く達夫(現会長)

【命をつなぐ】
孫の徹郎(生後3ヶ月)を抱く恒三郎。
この数ヶ月後、恒三郎亡くなる。
昭和45年(1970年)6月のこと。
※徹郎と恒三郎、2人の唯一の写真。

【命をつなぐ】
孫の徹郎(生後3ヶ月)を抱く恒三郎。
この数ヶ月後、恒三郎亡くなる。
1970年(昭和45年)6月のこと。
※徹郎と恒三郎、2人の唯一の写真。

【このひと言が伊藤金属総業をつないだ】
戦前から親交のあった栃木義夫氏と恒三郎。
恒三郎が急逝。
26才だった達夫(現社長)は突然のことに戸惑います。
職場は自分よりも年上の人ばかり。
その時、栃木義夫氏が達夫にこう言いました。
「まじめにやってれば、日本中に仕事はあるさ」の徹郎(生後3ヶ月)を抱く恒三郎。その言葉にも背中を押されて、伊藤金属総業を継ぐことを決意します。

【このひと言が伊藤金属総業をつないだ】
戦前から親交のあった栃木義夫氏と恒三郎。
恒三郎が急逝。
26才だった達夫(現社長)は突然のことに戸惑います。
職場は自分よりも年上の人ばかり。
その時、栃木義夫氏が達夫にこう言いました。
「まじめにやってれば、日本中に仕事はあるさ」の徹郎(生後3ヶ月)を抱く恒三郎。その言葉にも背中を押されて、伊藤金属総業を継ぐことを決意します。
この後、伊藤達夫(みちお)が2代目として引き継ぐのですが、残念ながら写真等の資料がほとんどありません。 最後はこれまでのあゆみを振り返りながらあゆんできた先にある未来を少し考えてみました。

蝶番はモノとモノをつなげる役割がありますが蝶番を作りつづけることでヒトとヒトのつながりができました。 これまで経営でのピンチもありました。そんな場面で手を差し伸べてくれたのは蝶番を通してつながってきた人たちでした。 父・恒三郎が急逝したときの栃木義夫氏のコトバ。「まじめにやってれば、日本中に仕事はあるさ」 「伊藤金属総業の人びと」のなかで社長の伊藤達夫に長くつづけてこれた秘訣を訊ねると「まじめにやってきたからかな」と答えました。 「つくる」「つなぐ」「つなげる」 創業者の恒三郎が抱っこしていた孫の徹郎が蝶番の製作にたずさわるとは当時の恒三郎も夢にも考えていなかったでしょう。

蝶番はモノとモノをつなげる役割がありますが
蝶番を作りつづけることでヒトとヒトのつながりができました。
これまで経営でのピンチもありました。
そんな場面で手を差し伸べてくれたのは蝶番を通してつながってきた人たちでした。
父・恒三郎が急逝したときの栃木義夫氏のコトバ。
「まじめにやってれば、日本中に仕事はあるさ」
「伊藤金属総業の人びと」のなかで社長の伊藤達夫に長くつづけてこれた秘訣を訊ねると「まじめにやってきたからかな」と答えました。
「つくる」「つなぐ」「つなげる」 創業者の恒三郎が抱っこしていた孫の徹郎が蝶番の製作にたずさわるとは当時の恒三郎も夢にも考えていなかったでしょう。

伊藤金属総業は蝶番を作りながらつなぐ力を磨いてきました。 つなぐことで、さまざまな人や物、出来事とつながってきました。そして、これからもつながりを広げていきたい。 伊藤金属総業の未来はそこにあると考えています。

伊藤金属総業は蝶番を作りながらつなぐ力を磨いてきました。
つなぐことで、さまざまな人や物、出来事とつながってきました。
そして、これからもつながりを広げていきたい。
伊藤金属総業の未来はそこにあると考えています。